理解と学習の違い
理解とか学習とか似たような言葉がありますが、その違いは何でしょう。
それぞれの定義は適当な辞書を参照していただくとして、ここでは私の見解を書きます。まずは図1を見てください。
知識というのは情報とも言い換えることができます。例えば「日本の初代内閣総理大臣は伊藤博文」とか、「炭素の原子番号は6」といった具合です。
そして学習や勉強というのは、「既存の情報をインプットする行為」を指します。
図1では最も大きな円柱が知識全体であり、その中にあるそれぞれの円柱が学問の分野や領域に相当します。
図1の太い青矢印が示すように、学習とはそれぞれの領域を拡大する行為でもあります。
また、領域の拡大には二次元的に円型に広げる拡大(A)と、三次元的に深さを考慮した拡大(B)、そしてその二つの拡大が同時に進む拡大(C)の3パターンがあります。
一方で「理解」とは、獲得した知識や情報に繋がりを持たせることを指します。
離れた二つの事象を繋ぐ役目をするものが理解だと私は考えているので、アウトプットには理解が不可欠です。
なぜならアウトプットするにはインプットした知識や情報を繋いで関連付ける必要があるからです。インプットした情報をそのまま出力するのはアウトプットではなく、ただの伝言ゲームです。
また、理解を上記のように捉えると、「理解が深まる」というのは異なる事象間の結合の強さが強くなることを表しています。
余談ですが、寝たら理解が深まったというのは、寝ている間に脳の神経間をつないでいるニューロンの繋がりかたが変化するかららしいです。
このように見ると、学習や勉強に対して自分がコントロールできる割合は大きいと思います。
しかし、理解は別の領域を繋いで関係性を持たせることなので、ひらめきや気づきなどの偶発的なものが関与しています。言い換えると、理解に対して自分の意思が占める割合は小さいのです。
そして両者のその違いが「学習効率」という言葉は存在するけれど、「理解効率」とは言わない理由になっていると思います。
さっきも書いたように、学習とはそれぞれの領域を拡大する行為であり、自分でコントロールできる割合が大きいです。なので、費やした時間に対して得られる知識量や情報量を増やすというのは可能です。
一方で理解というのは偶然性をはらむものなので、その効率を上げるというのは、「サイコロの特定の目を効率良く出せ」と言ってるのと近いです。
サイコロ(脳みそ)に細工をしない限り無理ですよね。仮に「理解効率」という言葉が世間に浸透するようになっているなら、その頃には脳みそに電極を埋め込んでごちゃごちゃいじるのが別に珍しいことではなくなっている世界なのだろうなぁと思います。
今回は私の「理解」や「学習」に対する捉え方をつらつら書いてきましたが、現時点での捉え方なので、今後それが変わってゆく可能性も大いにあると思います。
その時はこの記事に加筆して更新しようと思います。